プロセスなんて下手でも我流でも気にしない
デザインプロセスの儀式化
随分昔の話になりますが、茶道(表千家)をしばらく学んでいた頃があります。日本伝統をひとつでも知っておきたかったというのもありますし、茶道にある特有の礼儀に興味があったのが理由です。茶道は、使う道具はもちろん、たてかた、飲み方にも決まったルール・プロセスがあります。できあがった茶の味だけでなく、茶がたてられる過程も楽しむのが茶道の魅力であり奥深さです。
完成品だけでなく、過程を重んじるのは茶道だけの話ではありません。日本に昔からある芸道だけでなく、「寿司を食べる」といった食の世界にもあります。美味しく寿司をいただくには、決まった順序がありますし、正しいとされる礼儀もあります。プロセスというより、一種の『儀式』と呼ぶことができるでしょう。
過程(プロセス)を重んじ、儀式のように進めるという行為は日本文化だけでなく、他国でもあります。プロセスには言葉として表現するのが難しい魅力があるものの、無心で信じるのは良くありません。今日のデザインにおいて、どの環境、どのプロジェクトでも適応できる完全無欠のプロセスは存在しません。しかし、それでも私たちは確実性や安心を求めて『正しいやり方』を探してしまいがちです。ただ、デザインプロセスそのものを過剰に意識することで、デザインが本来しなければならい役割が果たせなくなることがあります。
儀式化してしまっているデザインプロセスを例えてみると
- 同じ手法を決まった順序で毎回進める
- 後戻りや再検討をせずに、とにかく進める
- 書籍で定義されている用語と手法に凝り固まってしまう
- 違う目的でも、同じような共有物・成果物を作り続ける
- とっさの対応は避けて、決まったプロセスに乗せようとする
これらは私も経験したことがある落とし穴です。プロセスを執行する側からすれば楽ですが、そもそもの課題解決に繋がらないことがあるだけでなく、周りが付いてこなくなる場合もあります。手段が目的になり、手段を実行するために何をしたら良いのかといった生産性のない話に陥ることもあります。重要なのは結果であり、過程ではないわけですが、プロセスを過信するあまりそれを忘れてしまうわけです。
前へ進むための力
目的を達成するためにベストな方法は何かを考えて作るのがデザイナーの仕事です。それはアプリをデザインするという大きなことから、今日仕上げなければならないひとつのイラストという小さなことにも言えます。誰も時間を無駄にしたくないですし、間違ったことをしたとも思われたくないでしょう。様々な制約のなかで最適解を見つ出すことになりますが、それは一本道ではないはずです。つまり、手法 A をしたら、手法 B へ移るといったプロセスにはならないわけです。もし素晴らしいプロセスが見つかったとしても、最適解へ導いてくれるとは限りません。考え方や進め方は人によって違うので、自分にたまたま合うやり方、肌に合う進め方もあるでしょう。
アイデア・発想という目に見えない抽象的なものを、少しずつ誰もが触ったり見たりできるものへと具現化していくわけですが、0からいきなり1になることはマレです(周りからはそう思われることもありますが)。0.1, 0.2 と小刻みに進んで行くこともあれば、0.4 まで進んだかと思いきや 0.2 へ戻ることもあるかもしれません。幸い、形にしていくための手法は世にたくさん出回っていますし、先人達による知識や経験も役に立ちます。ただ、その道具や知識をどのように扱えば前へ進めるかは未知数ですし、不確定要素がなくなるのかといえば、そうでもなかったりします。
デザインプロセスを一種の儀式や礼儀のように扱うことで、不確定要素がなくなるわけではありません。これはユーザー調査というひとつの手法にしても同じことで、いつまで調査を続けても「100% 理解した」という日はやって来ないわけです。アイデアから形作るという行為の間には大きな『溝』のようなものがあると思っています。それは不安や心配かもしれませんし、気付いていない不確定要素かもしれませんし、コストや時間かもしれません。そうしたリスクを飛び越えて前へ進む場面はどこにでもあって、絶対落ちない強靭な橋は用意されていないわけです。
まとめ
デザインの仕事は DJ や即興役者に近いと感じています。そのときどきに合わせて最適だと思えるコミュニケーション方法を選んでいますし、ときにはリミックスすることもあれば、定説を破って伝えることもあります。ひとつの UI を作るときでも、原則は守りつつも、その場面に合うものは何か過去・現在・未来を見て考えます。ダメならまた作り直しですし、作り直すことができる『余白』を用意するのも仕事のひとつです。道具を順序よく使うというより、結果を生み出す手段を道具を駆使して探し出すというニュアンスに近いかもしれません。
模索を続けるということはプロトタイプといった手法だけではなく、デザインプロセスそのものにも言えます。プロセスを凝り固まった儀式のように扱っていては失敗を許す環境を作ることがますます難しくなります。失敗を伴いながら、なお伝えるためのデザインを作り続けるという行為そのものに間違いなんてないと思います。正しさを追い求める時間があれば、何かひとつスケッチを描きたい今日この頃です。