Liquid Glassはエモくない
すべてを説明しようとすることで、デザインの本質的な価値を損なう危険性があります。

WWDC 2025 で新しいデザイン言語「Liquid Glass」が発表されました。
まだβ期間のため、使い勝手やアクセシビリティに課題が目立ちますが、個人的に気になったのは説明の仕方です。利用体験の紹介やデモは少なく、デザインの一貫性やインタラクションの詳細といった設計者の論理を説明する内容が中心でした。実践的な問題解決より、デザインの理論的正当化に重点を置いているように見えます。
下記は「Aqua」を発表したときの Steve Jobs の動画です。
一貫性や歴史的背景を語らず、ただ「これ、すごくない?」という感覚だけで伝えるデモ。Aqua を最初に紹介したとき「You wanted to lick it.(なめてみたくなるよ)」といったコメントもしていました。Aquaも使い勝手やアクセシビリティの課題があり、優れたデザイン言語とは言い切れませんでした。しかし、デザインの論理をしっかり’説明する最近のアプローチとは異なり、感覚的な体験の話をしている姿は逆に新鮮さを感じます。
当時は(iPhone前!)、ユーザー数も少なかったため、直感的にアピールしやすい環境だったと思います。現在は世界一のグローバル企業となり、ユーザー数も多いだけでなく多数のステークホルダーへの説明が不可欠です。そのため、「Liquid Aqua」のような説明が求められることにも共感できます。
しかし、外向きの説明論理が内部のデザイン判断を支配し始めると、論理のための論理になりがちです。説明できることが重要という考えが行き過ぎると、感覚的な領域まで明文化を強要される環境が生まれます。その結果、「理論的だが使いにくい」デザインが生まれてしまうことがあります。説明できることを重視する環境だと、理論で裏付けできない良いアイデアが却下されたり、実験や模索ができなくなります。
私はよく明文化や定量化を重視するよう伝えていますが、感覚的な領域には踏み込まないよう線を引いています。デザイナーが感覚的に納得していれば、それで十分だと思っています。時には「なんか良い感じ!」という直感だけで進めて良いのではないでしょうか。
ドナルド・ノーマンが著書『エモーショナル・デザイン』人間がプロダクトやサービスを体験する際に、本能的(Visceral)、行動的(Behavioral)、内省的(Reflective)という3つの異なるレベルで感情が動くと説いています。行動的レベルであれば明文化は必要ですが、本能的レベルにまで広げてしまうと、本来の意図とは違う正当化のための説明になってしまいます。
理論的説明は、チーム間の合意形成や、継続的改善のためには欠かせません。しかし、すべてを説明しようとすることで、デザインの本質的な価値を損なう危険性があります。「Liquid Glass」には賛否両論あると思いますが、私のなかでは、すべてを説明しようと努力した結果に生まれたのものと想像してしまいました。