ターゲット全員発想が組織を蝕む
「全員」という言葉は希望に満ち溢れていますが、同時に何も具体的に決めていない言葉でもあります。
多くの人が利用するプロダクトでは、ターゲットが「全員」に設定されがちです。「誰もが使う」「みんなに価値を提供する」という考え方は、一見魅力的に聞こえますが、最適な結果をもたらすとは限りません。ビジョンやミッションにおいて「全員」を含むことは可能でも、新機能の開発や改善施策を行う際には、ターゲットを絞らなければ意思決定が遅れるだけでなく、成功の評価が難しくなることがあります。
「ターゲットを絞りましょう」と言うのは簡単ですが、それを実行するためには、人間が持つ認知バイアスや、組織内のコミュニケーションの壁を乗り越えなければなりません。何かに焦点を絞るということは、同時に別の何かの優先順位を下げることを意味します。その結果、機会損失を過度に恐れる「損失回避性」によって、絞ることのメリットよりも、見逃す可能性のある機会に価値を置いてしまうことがあります。「オプションXを選択肢として残しておくことも考慮すべき」といった声も、損失回避性という認知バイアスの罠です。
また、「全員」をターゲットに設定することは、政治的に安全な選択と見なされる場合もあります。特定のセグメントを優先しないことで、部門間の軋轢を避けやすくなり、ステークホルダー間の利害対立を回避する手段として受け入れられることがあります。
施策の承認を得る際、「ターゲットは全員」という表現は響きが良く、受け入れられやすいかもしれません。しかし、要件を具体化する段階になると、議論が一転二転して前進しづらくなることがあります。例えば、「全員」と言っても、以下のようにさまざまな切り口が考えられます(実際にはさらに多くの切り口が存在します)。
- 現在、プロダクトを利用している人全員
- 無料プランを利用中の人全員
- 他プロダクトから乗り換えを検討している人全員
- 組織規模に関わらず全員
- 中小企業で働く人全員
- ITリテラシーレベル関係なく全員
- 全員が使っているユースケース
- 全員が使うカスタマイズオプション
- 全員が満足して使えるパフォーマンス
- 全員が使っているデバイスへの対応
- ターゲット市場全員
「全員」という言葉には、それぞれ異なる要件や制約、トレードオフが伴います。関係者が「全員」という言葉を使う際、それぞれが異なる範囲を想定していることが多く、その結果、認識の不一致や議論の焦点が分散してしまうことがあります。このように「全員」という言葉に含まれるニュアンスを整理してみると、対応の複雑さが指数関数的に増大する理由が見えてきます。
顧客が単純に増えることだけでなく、交錯する要件や関係者からの多様な期待が次々と加わることで、管理すべき複雑性が急激に膨らんでいきます。
「全員」から特定のターゲットに絞り込むプロセスでは、認知バイアスへの対処と組織としての覚悟が基盤となります。リーダーやステークホルダーには、フォーカスの価値を説き続け、スコープ拡大の圧力に向き合いながら、実践と評価を重ねる姿勢が望まれます。また、チームメンバーからも「そもそも、全員とは具体的に誰を指しているのでしょうか?」といった問いかけを積極的に行うことで、施策の解像度を高めるコミュニケーションが生まれていきます。
「全員」という言葉は希望に満ち溢れていますが、同時に何も具体的に決めていない言葉でもあります。