エンパシーの限界とリサーチにある解す力
「ユーザーのことは完全に理解できないものである」という前提で取り組めることは幾つかあります。
エンパシーはスケールするのか?
IDEO や Stanford、IBM、UK Design Council などの組織は、デザイン思考において「感情移入(エンパシー / Empathy)」が不可欠であると説いています。しかし、感情移入が必ずしも効果的なアプローチとは限らないという見解もあります。
例えば、ロールプレイや疑似体験ワークショップを通じて共感を深めるアプローチがありますが、これが逆効果になる可能性も指摘されています。ワークショップを通じても当事者と『同じ目線』に立つことは難しく、分かった気になることでバイアスが生まれる恐れがあります。
また、数百万、数千万のユーザーを抱えるサービスにおいて、感情移入をどのように行うかは難題です。インタビューの適切なサンプルサイズについての定説はありますが、多様なユースケースやニーズを理解することは容易ではありません。組織内でユーザー像を伝える際に、ニュアンスを削ぎ落とした簡略化が必要になることもあります。
私たちの認知能力には限界があるため、簡略化しないと理解が難しいことがありますが、その結果、多くの文脈が削ぎ落とされてしまう場合もあります。ダンバー数が提示する安定的な社会関係を維持できる人数の上限を考慮しなくても、多様で多数のユーザーが利用するサービスにおいて、感情移入は決して容易ではありません。
だからといって数値がすべてではない
デザインプロセスに他者を巻き込んでも、多くの人々が取り残されてしまうのが現実です。多様性豊かな感情移入が難しいため、意思決定の際には数字に頼りがちになります。数字を通じて傾向やパターンを把握する方が、「多くの人々の状況を把握できた」と感じやすいからです。
データドリブンの意思決定は、ビジネスでのコミュニケーションにおいて不可欠です。「数字が良ければ成功」というシンプルな基準を設けることで、前後比較をしながら評価できるメリットがあります。様々な価値観を持つ人々が集まる組織では、シンプルな判断基準があることで育成や横展開がしやすくなります。また、数値は「科学的」「客観的」という印象を与え、不確実性への不安を軽減する効果もあります。
しかし、感情移入が難しいからといって、インパクトを重視してユーザーを数字として扱うアプローチには問題があります。数値データを扱う際、人は機械的・分析的な思考モードに入りやすくなります。人を数字で単純化すると全体像の理解がしやすくなる一方、大まかな分類によるバイアスが生まれやすくなります。例えば、「ITリテラシーが低い」という分類によって、先入観が生じたり、ITリテラシーが低い理由や背景を十分に考慮しなくなる場合があります。
Harvard Business Review の「Emphasizing Empathy as a Cornerstone of the Customer Experience」レポートによると、企業が顧客を理解していると認識する度合いと、顧客が理解されていると感じる度合いにはギャップがあります。企業はデータ分析に頼りすぎる傾向があり、インタビューや観察といった定性的な手法を通じた、顧客との人間的なつながりや共感が十分に行えていない状況です。
多様な理解を深めるための第一歩
年齢、性別、文化、価値観、使用環境など、あらゆる面で多様です。その全てを理解し、全てに感情移入することは、現実的ではありません。ただ、それは絶望することではないですし、「完全に理解できないものである」という前提で取り組めることは幾つかあります。
まず、私たちが課題であることにすら気付いていないことを認知することです。アメリカ国務長官ドナルド・ラムズフェルドが残した有名な言葉「Unknown Knowns(知っていると知らないこと)」があるように、私たちの理解や共感には、常に盲点があります。リサーチはよく「ある程度知っていることに対して、理解を深める」活動に偏りがちです。
例えば「持続利用率が低いのでインタビューしよう」というシナリオがあるとします。持続利用率の低下という表層的な問題から一歩踏み込んだ活動ですが、既存の仮説や予想に基づいてリサーチを設計してしまうことで、長期的なトレンドや潜在的な将来のニーズを見逃してしまう可能性があります。
そこで、リサーチャーと依頼者だけでなく、営業や開発者など、様々な背景を持つ方々と一緒に仮説を出し合います。これにより、「知っている」「当たり前」と思っていることが明確になるだけでなく、「その逆は考えられないだろうか?」といった問いを通じて、私たちが見落としていた課題を特定するきっかけが生まれます。
たとえ持続利用率低下の背景を知るためのリサーチであっても、利用中や離脱理由に焦点を絞った狭いインタビューにしないことも重要です。「普段どのような仕事をされていますか?」や「一日のスケジュールを教えてください」といった問いを通じて、私たちが考慮していなかった理由の発見につながることもあります。
分析をひとりのリサーチャーに任せず、複数の視点を取り入れることも、多種多様な視点を得るための重要な活動です。たとえリサーチ経験がない方でも、ユーザーの声や行動を見聞きして気づいたことを言葉にできますし、その人ならではのパターン分析を通じて得られる見解もあります。リサーチャーの経験や考えに偏らない分析を行うためにも、効果的なアプローチです。
もちろん、こうした活動によって多種多様な人間像や文脈を完全に理解することはできないですし、数値のように説得力のあるデータにはならないかもしれません。しかし、より多くの人々の見解を交えたリサーチ活動は、「そういえば、そんなこと考えていなかった」という新たな気づきに繋がります。定性調査の価値は、単にユーザーの声やその背後にある文脈を伝えるだけでなく、定量データ分析による機械的・分析的な思考モードを『解す』力も含まれていると思います。リサーチという活動を共に歩み、考え、知見を組織全体で共有し続けることが、意思決定に繋がるリサーチ活動には欠かせないでしょう。