あなたのUXに必要となる視覚化と批評
ニュアンスを浸透させる2つのフェイズ
昨年の Advent Calendar の記事でも指摘しましたが、UX は「分かる人には分かる。分かっている人と分かっていると思うことが心地いい」という雰囲気がどことなく感じることがあります。何人かのデザイナーに UX の話を持ちかけても「話しにくい」「避けたい」という声も出てくるわけですから、学びたい人へ向けた UX はこれからなのかもしれません。
しかしながら、私の中で UX を学ぶために必要なのは「利用者体験とは?」ということを探求することではなく、「良い体験」というボヤけたニュアンスをどうしたら相手に伝わるのかを考えることだと思います。そのためにペルソナやカスタマージャーニーマップのような視覚化するためのツールがあるわけですが、それだけでニュアンスを共有できるわけではありません。
プロジェクトにおける「良い」をチームで共有するには、2 つのフェイズがあり、それらを相互に実践することで、徐々にニュアンスが浸透していくものと考えています。
- 視覚化 – 漠然な言葉を様々な表現をつかって深堀する
- 批評 – 共有した視点を基に作られたものを評価をする
視覚化した情報や知識を基に批評をするだけでなく、批評を基に視覚化したものにさらに明確な表現にしていくというサイクルになります。批評をした際に生まれた課題を、ペルソナをはじめとした視覚化ツールに反映していくことで、次の批評の際に少しでも的確な意見が出るようにします。
視覚化をするためのツールや手法は、好きなものを選べるほどたくさん存在しますが、問題になるのが批評するところ。大学のデザイン学部や専門学校へ行った方であれば批評をする時間があったと思いますが、多くの方は批評を経験したことがありません。「好き」「ダサイ」「面白くない」「使えない」という感情的な表現になりがちですし、批評が制作者へ指示をする時間になっていることもあります。
会話ができる環境はあるか?
多義語や含みがある表現が多い日本語で会話をしていることもあり、なんとなくでも伝わってしまうことがあります。しかし、それが誤解の基になることも少なくありません。デザイナーのなかで「美しい表現だ」と思うものも、いざ外で伝えるとなると「美しい表現」では何を言いたいのか分からないことがあります。そもそも何をもって「美しい」のかさえ共感してもらえないこともあります。
話し手は、何が「美しさ」という感情を生み出しているのかを説明できるようになる必要があります。聞き手も、たとえ自分にはその美しさが感じ取れなくても、プロジェクトにおいてその美しさは必要だということを理解できるようにならなければいけません。
今年はデザイン批評について話す機会を増やしたのは、デザインについて話す環境がまだ整っていないと感じたからです。それを抜きにしてデザインがもたらす利用者の動線や感情の議論をしても、好き嫌いの話だけになる恐れがあります。小さなグループであれば、視覚化をせずとも前提を共有することができますが、様々な背景の方が集まる場では準備だけでなく繰り返し続けることが重要になります。
批評の目的は、出てきた成果物についてあれこれ文句や注文を付けるものではなく、デザインをもっとよくするために話し合うことです。経験があると、どうしても答えを先に言いたくなりますが、それが結果的に会話の妨げになることがあります。デザインを見せてもらうときは、好き嫌い(使いやすい、見難い)のような評価を下さず、まず最初に「なぜこうしたのか?」と尋ねるようにしています。作り手自ら理由を話してもらうことで、何に取り組むべきなのかが見えてくるからです。
チームでUXを共有するための会話
HTML5 Experts で公開された「いま、UXを語るのはなぜ悩ましいのか?」というインタビュー記事で伝えたかったのは、どの定義や考え方が正しいのか(もしくは間違っているのか)ではなく、製品やサービスを作るチームメンバーで UX の定義が共有できてさえいれば、それで良いということです。書籍に書かれている定義とかけ離れていても、独自の言い回しに変わっていても、チームでそれを基にデザインの話ができれば良いと思っています。
皆、経験を通して自分なりの『UX観』を描いてきたと思います。そしてその経験は人それぞれ、プロジェクトそれぞれです。皆がもっている『UX観』は、その現場において正しいですし、ひとつの定義だと思います。ただ、そのまま他にも当てはまるのかといえばそうでもないですし、適合しないからといって否定することもできません。
もし「違う」「おかしい」と言い切るのであれば、「相手はなぜそう考えるのか」というデザイン批評の基本に立ち返るべきだと思います。良い体験というのは、「こうである」と押し付けるものではなく、「いろいろあるよね」という受け入れの姿勢から生まれているのではないでしょうか。