欲求段階と体験の質
人はなぜ、Web サイトへ訪れるのでしょうか。
なぜ、アプリをダウンロードして使うのでしょうか。
そこには、知識、娯楽、快楽、名声など様々な欲求が根底にあると思います。人が感じる「良い体験」というのは、その欲求と深い関わりがあるはずです。
米国の心理学者アブラハム・マズローは、「人間は自己実現(Self-Actualization)に向かって成長する生きものである」と仮説し、その過程を5段階の階層で表現しています(詳しくは Wikipedia の記事か、関連書籍をご覧下さい)。5階層は以下のとおり。
- 身体的(Physiological)
- 安全(Safety)
- 社会・所属(Social)
- 尊重(Esteem)
- 自己実現(Self-Actualization)
心理学における考え方のひとつですが、デザインにも重ねることができます。利用者がサービスとの関わりにおいて、最高の利用体験を得たときが「自己実現」ではないかと思います。楽しめて使えた、キヅキがあった、役に立ったといった、感情が生まれるようにデザイナーは日々試行錯誤を繰り替えしています。しかし、このピラミッドの最上階層へ辿り着くために抑えておきたい段階があります。マズローの欲求段階では、最初の4欲求が満たされていない状態では自己実現はなし得ないと説いているように、利用者体験における「自己実現」も同様のことがいえるはずです。
もしマズローの欲求段階をデザイン向けに書き換えるのであれば、以下のように解釈することができます。
- 身体的・心理的 : 人が必要としているものかどうか
- 安全 : サービスと安全に使うことができるかどうか
- 社会 : 実生活(オフライン・オンライン)に直結しているかどうか
- 尊重 : 自分のペースで操作ができ、自分でコントロールできるかどうか
- 自己実現 : 体験を通して気持ちや生活が豊かになるかどうか
近年「良い体験をデザインする」という話題になると、「自己実現」寄りになることがあります。しかし、下階層が満たされていないのであれば、表層的な解にしか成りえないのかもしれません。
それでは、具体的に何をすれば上階層を満たす状態になるのでしょうか。「安全」を例えとしてみてみましょう。
利用者が安全に使えないのであれば、たとえ見た目や触り心地が良くても長く使うことはありません。セキュリティはもちろん、バグを最小限に抑えたり、致命的なエラーが出ないように品質チェックを行うのも安全性に繋がります。このように安全を技術で解決するものもあれば、安全であると感じてもらうことで解決するものもあるわけです。
デザインで安全を担保するにはどうすれば良いのでしょうか。 例えば、利用者がミスしたときも、軌道修正ができるような配慮をすることができます。設計段階で様々な検証を行い、ユーザーテストをしても、実際の利用者は何かしらの誤操作をします。また、ネットワーク環境やソフトウェアの状態など、思いもよらない技術的なエラーが発生する可能性もあります。使いやすいインターフェイスを設計したとしても、ミスやエラーをゼロにすることはできないわけです。
重要なのは、利用者にミスの全責任を負わすようなデザインにせず、彼等の目的に辿り着けるようにちょっとした後押しをすることです。
もう 10 年前の書籍ですが、ディフェンシブ・ウェブデザインの技術は、ユーザーインターフェイスや言葉の使い方を通して、利用者に安全を提供するための基礎を教えてくれます。書籍では Web サイトのフォームやエラーメッセージを中心に『防御的なデザイン』について書かれていますが、アプリにも通じるところがあります。そして何よりも「使いやすい」だけが良いデザインになるわけではないというのが分かります。失敗を許すデザインという側面があり、そこに安全性が潜んでいるのではないでしょうか。
今回はマズローの欲求段階のなかにある「安全」を独自の解釈で展開してみましたが、他の階層にも様々な課題やアプローチがあるはずです。いきなり「良い体験の工夫」を設計するのではなく、その下階層をどのように設計していくかを考えることで、おのずと良い体験に繋がるのではないでしょうか。