もしこの映画を Facebook が出来るまでの話、そして米国 IT 業界の裏側が知りたいと思って見たのであれば落胆してしまう映画かもしれません。映画『ソーシャル・ネットワーク』は Facebook や実在する方達の名前が登場するノンフィクションのようなフィクション(物語)を語っているだけのように見えると同時に、象徴的な設定やシーンが多い映画でした。

私たち人間は「地位を築きたい」「他人から認められたい」「誰かからの賛同・賞賛を聞きたい」という欲望をもっているかと思います。これらの欲望は Facebook という SNS ではステータスアップデート、友達リスト、Likeボタン、といった機能によって具現化されているといっていいでしょう。そして、それを作り出したマークという名の登場人物は、それらの欲望が擬人化されたような存在になっています。映画の最初のシーンから最後まで彼はその欲望を満たすために様々な行動をし、その欲望を Facebook にぶつけることも度々ありましたが、結局のところ最後まで欲望を満たすことが出来ませんでした。人の欲望そのものがそうであるかのように、満たされかのように見えていつまでも満たされることはないということなのでしょう。

ソーシャル・ネットワークという題名にしても、SNSを指しているというよりかは、私たちが住む社会に存在する様々なネットワークすべてを指しているかのように見えます。劇中でも様々なネットワークが紹介されています。大学、フラタニティ、富裕層、スポーツ、シリコンバレー、実業家・起業家、そして Facebook といった様々なネットワークが存在します。それぞれのネットワークに入るにはルールに従わなければいけませんし、そのネットワークにいる人たちから認められなければ足を踏み入れることも出来ません。こうした幾つもある『ソーシャル・ネットワーク』に属するには、他人から認められなくてはいけません。しかしそれは地位になりますし、誰かからの賛同・賞賛を受けることになるでしょう。実際、劇中にはネットワークに入るための儀式・手続きを語るシーン、そして受け入れられたことによる人々の反応を描写するシーンが何度か出てきます。

私たちが常に様々なネットワークの中で生活しているというのは劇中のシーン構成で象徴化されています。例えば上のようなショーンとマークの会話のシーンを見てみましょう。彼等の会話だけのように見えますが、背景では実にたくさんの会話がなされています。Facebook 社というひとつの枠に皆が属しているもの、それぞれが小さなクラスタに分かれていて、それぞれが思い思いの社会交流をしています。メインキャラクターが『大きなこと』をしていてもそれは彼等の生活には関係のないことで、それぞれが感じる重要なこと・楽しいと感じること・クールだと思うことをしているわけです。こうした多数のエキストラを使った複数のネットワークの具現化は劇中で何度も出てきます。

複数かつ同時多発的に発生する社会ネットワークというのはインターネット以前からあったわけですが、Facebook をはじめとしたデジタルの社会ネットワークが登場したことによって何が変わったのでしょうか。劇中でも指摘していますが、先述した人の欲望も含めあらゆる事柄が記録されているという点が大きな変化でしょう。プライベートとパブリックという敷居は曖昧になり、ネットワークすべてにラベリグされたことにより、人のことで知らない情報がないといっても良い状態です。様々なことは記録され、その記録はまたさらに記録され、再び記録される。こうした記録による無限ループの中、私たちはオフラインにながらも、デジタルの記録に影響を受け続けて生きているということなのでしょう。私たちは欲望を満たすために、その欲望そのものを具体的な形でさらけ出したことにより、逆に身動きがとれないという状態を作り出しているのかもしれません。

映画は Facebook という大変人気のある Web サービスを題材にしているものの、専門用語も多く、エキサイティングできるようなストーリー展開もアクションもありません。しかし、この映画は下手なアクション映画よりおもしろいですし、複雑で興味を引きます。Facebook というデジタルの社会ネットワークを中心として、様々な社会ネットワークに住んでいる私たちの現在を登場人物と巧妙なシーン構成で見事に具現化した映画。2度3度見ると新たな発見や、象徴化されたシーンを見つけることが出来ると思います。そして、私たちは今どのような世界で生きているのかということを考えさせてくれる映画です。