ダークナイト・ライジング
このレビューは、映画『ダークナイト・ライジング』だけでなく、前2作の内容について供述されています。『ダークナイト・ライジング』のストーリーにおいて重要な部分は省いてありますが、内容は知りたくないという方は読まないでください。
バットマンシリーズが作り出した英雄像
クリストファー・ノーランの作り出したバットマン3部作のテーマは「英雄(ヒーロー)は幻想的な存在である」だったと思います。近いようで果てしなく遠い存在。特定の人ではなく、超越した何か。それが幻想であり、英雄の姿なのかもしれません。そして、ノーラン監督はこの「英雄は幻想」というひとつのテーマに対して様々な角度から捉えることで、3つの映画を作り上げたといえるでしょう。
『バットマン・ビギンズ』では、英雄という幻想が生まれる瞬間を目撃しました。ブルース・ウェイン自身が英雄になるのではく、バットマンというシンボルが悪と戦うことを選んだのも、人を超越した幻想のような存在の方が恐怖を植え付けるには最適だったからなのでしょう。神出鬼没に現れるシーンや、宙に浮くシーンが多く見られたのも、幻想的な要素を強めるための演出といえるでしょう。
『ダークナイト』では、幻想ではなく、生身の姿の英雄ハーヴェイ・デントが現れます。ブルース・ウェインは自ら作り出した幻想から逃げるかのように、後継者としてデントを選ぼうとするわけですが、デントがトゥーフェイスとして暴走しはじめたことにより事態が変わります。映画はトゥーフェイスとしてではなく、英雄ハーヴェイ・デントとして死んだという、誤った形(異なる幻想による)の英雄像が生み出されて幕を閉じます。
『ダークナイト・ライジング』では、前2作を通して作り上げられた「英雄という名の幻想」の破壊と再構築が全体的なテーマとしてあったと思います。バットマンという幻想的な英雄の破壊。ハーヴェイ・デントという創られた英雄像の破壊。そして、それらの幻想によって作られたゴッサムシティの破壊です。破壊と再構築を経て、ブルース・ウェインは幻想から解き放たれ、バットマンは誰のものでもないひとつの伝説になります。石像が建てられたシーンは、英雄が本当の意味で幻想的な存在になった瞬間といえるでしょう。
元々ノーラン監督は、「幻想」というキーワードに深い興味を示しており、彼の作品すべて幻想というキーワードがひっかかります。他人のプライバシーに潜入しているという幻想を描いたデビュー作『フォロウィング』。犯人という幻想を追い続ける「メメント』。『インソムニア』と『インセプション』は幻想によるパラノイアを描いた作品ですし、『プレステージ』に至っては幻想そのものをテーマにしています。
彼が毎回テーマにしている幻想ではありますが、スーパーヒーロー(英雄)という要素を盛り込むことによって、他のアメコミにはないバットマンという名の神話を作り出すことが出来たと思います。
フォーカスが定まらなかったライジング
シリーズを通して「英雄は幻想」であるというテーマはあったものの、それぞれの作品でサブテーマと呼べるキーワードがあり、それらがストーリーの構築に重要な鍵を握っています。バットマンシリーズに登場するキャラクターは、そのキーワードを背負った象徴と言い換えることができます。
『バットマン・ビギンズ』では、「恐怖」が重要なテーマです。恐怖に立ち向かうブルース・ウェインが、バットマンという象徴を生み出し、今度は恐怖を犯罪者に植え付ける役に変わります。犯罪、闇、コウモリ、混乱、炎といった恐怖を連想させるシーンは度々でてきています。悪役のラーズ・アル・グールやスケアクロウも、それぞれが思う形で人々に恐怖を植え付けていました。
『ダークナイト』では、キーワードの使われ方が少々複雑になります。テーマになった「罪悪感」は、ジョーカーという悪を作り出したバットマンに重くのしかかります。一方、ジョーカー本人は罪悪感がまったくない上、ひとの罪悪感をもて遊び、楽しむ存在でした。終盤にあるフェリーの『実験』は、人々の罪への意識に深く突き刺さるシーンでした。最後に自ら罪をかぶったバットマンの行為は、罪悪感への(一方的な)償いだったのかもしれません。
たくさんのキャラクターが登場するだけでなく、小さなストーリーも並行するので、まとまりにくいように見えます。しかし、こうしたキーワードが常に見え隠れしているので、ひとつの映画としてまとまっているのでしょう。
もちろん『ダークナイト・ライジング』にもキーワードは存在します。題名にライジングが含まれていることから分かるとおり「希望」が大きなメッセージです。高い天井の上にポッカリと空いているベインの刑務所は、『ビギンズ』に登場した井戸と重なるところがあり、苦節の末に見える希望を象徴しています。アルフレッドの一言で希望を失ったブルース・ウェイン自身も、バットマンを通して希望を取り戻します。また、破壊活動に徹しているだけのように見えたベインにしても、一度希望をもたせてから、すべてを破壊するという少し複雑なキャラクターです。
こうしてみると、前作同様にフォーカスされているように見えるものの、一貫性に欠けているのが残念なところ。原爆ですぐに破壊できるにも関わらず、希望を植え付けてから破壊しようとするベイン。そこまでなら面白いのですが、彼の存在がよく分からなくところがしばしば。彼の言う「一般大衆の復権」とは犯罪者にだけしか向けられておらず、原爆を落とさなくても希望がない街に見えます。また、『ダークナイト』で創られた希望を暴露するシーンがありますが、彼の言葉を素直に受け入れている民衆の心理が分からないです。テロリストのひとことで、バットマンの悪役像が一気に解消されるわけですから、不思議なものです。
劇中、バットマンとしてもブルース・ウェインとしても破壊されたわけですが、ブルース・ウェインとしての希望への道は影を薄め、マスクをかぶっていないバットマンの復活劇としての色が濃くなります。同一人物だから仕方ないという点はあるものの、別々の破壊があり、それぞれが異なる希望を持っているわけですから、繊細に描いてほしかったところ。バットマンを自身とはかけ離れた象徴として描いていたからこそ、公私混同な描き方はしてほしくなかったというのがあります。
深く描くには面白い題材が所々に見られるものの、スケールがあまりにも大きくなり過ぎたため、どれも描き切れていなかったように見えますし、残念な結果になったものもあります。野心的な試みではありましたが、うまくいったとは言えないかもしれません。
今後のノーラン映画への期待
今回 IMAX シアターで観覧しましたが、遠くから街を見下ろすようなスケールの大きいシーンには絶好の環境だったといえます。また、公開前から不満が寄せられていたベインの声も IMAX の高音質のおかげで幾分聞きやすかったように思えます。ノーラン監督の IMAX への拘りが所々に見ることが出来、その美しさは圧巻といえるでしょう。行けるのであれば、IMAX シアターをオススメします。
人の心理に深く潜り込むようなテーマ。そして、巧妙なストーリー構築で知られているノーラン監督ですが、シーンの撮り方は賛否両論だと思います。先述したように IMAX で撮ったシーンは美しいの一言ですが、これは映画なのかと思えるくらい平面的なシーンを撮ることがあります。
途中まではカメラの動きが分かり、臨場感を演出しようと試みるものの、途中から突然動きがなくなり、アップのカットが切り替わるだけになります。
映画の魅力は、空間と登場人物の感情を巧妙に組み合わせるところにあると思います。役者の魅力を引き立てるためのアップではありますが、多用するだけでなく、単調にしてしまうことで、伝えなければならないシーンの臨場感や雰囲気が失われることがあります。上のワンシーンだけでなく、キャラクターの会話の多くはひとりひとりのアップを繰り返すものが多いです。人のアップなしで感情を伝えるのは難しいと考えるかもしれませんが、黒澤明監督の『乱』を見れば、それが不可能ではないのが分かります。
会話シーンだけでなく、ノーラン監督の撮るアクションシーンも空間をうまく利用できていないことがあります。進行方向に向かって撮っていたのかと思えば、突然逆向きになったり、キャラクターを見ていても、今彼等が何処に向かって何が起こっているのか把握しにくいことがあります。これは、ノーラン監督に限らず、近年のアクション映画に見られる傾向ですが、派手なエフェクトと、動きの速いカメラで誤摩化す手法はそろそろ卒業してもらいたいところです。
『ダークナイト・ライジング』だけでは、見えにくいことも多々ありますが、シリーズを通して見ると、今回のバットマンシリーズが何を目指していたのかが浮き彫りにされてきます。幾つか弱い点はあるものの、3部作としては水準が高いですし、一度通して見る価値はあると思います。また、バットマンシリーズの束縛から解き放たれたノーラン監督が、今後どのような映画を作るのか期待しています。