定性と定量調査の境界が溶けた先にあるもの
AIの進化で曖昧になる定性・定量調査の境界と、リサーチャーの強みなる文脈理解とは何か。

AIによって溶けた境界
2025年4月、UXリサーチや顧客インサイト分析を効率化するクラウドツール「Dovetail」がカンファレンスを開催し、いくつかのプロダクトアップデートを発表しました。タグやフィルターを使った従来のインサイト管理に加え、自然言語で会話するようにインサイトを引き出せるチャット機能や、他サービスで収集したデータと連携して分析できる機能が追加され、定性調査の結果をこれまで以上に活用しやすくなりました。

Dovetailを使っていなくても、AIの進化によって定性データの活用範囲は広がってきているのを実感している方は多いと思います。私自身、レポート生成の仕組みを整えて作業を効率化したり、新しい分析手法の導入、設問の精度向上などにAIを活用しています。以前は数十件に及ぶトランスクリプトの処理に頭を悩ませていましたが、情報整理にかかる時間が大幅に削減されたことで、より重要な活動に集中できるようになり、大きな変化を実感しています。User Interviews が発表した「AI in UX Research Report 2024」によると、UXリサーチャーの約48%が「大量データの処理の速さ」を主な利点として挙げています。分析を始める前の下準備にかける時間の短縮を実感している方は少なくありません。
精度の懸念は残るものの、時には人間のリサーチャーが見逃していた関連性を発見できるくらいにまで進化しています。「Artificial Intelligence Augmented Qualitative Analysis: The Way of the Future?」という研究によれば、AIを活用した自動質的分析ツール(AQUA)によって分析時間が75%削減され、テーマやサブテーマの特定においても高い精度が維持されたという結果が報告されています。
従来の定性調査では、少数の深いインタビューから文脈を理解することが重視され、定量調査では大規模なデータをもとに統計的な傾向を把握するのが一般的でした。以前は「定量=統計」「定性=解釈」と明確に分かれていましたが、AIの登場によってこの境界は次第に曖昧になりつつあります。
現在は、AIを活用することで、数千件におよぶ自由記述から頻出キーワードを抽出したり、文脈を保ったまま要約を生成することが可能です。従来から、タグやラベルを用いた定量的な分類手法はありましたが、AIの進化により「グラフ+引用」「統計+ストーリー」といった、定量と定性を組み合わせたミックス型のレポートも手軽に作成できるようになってきています。人だと主観性や理論バイアスがブレてしまうことがありますが、AI であれば一貫性のあるデータ処理をしてくれるのもメリットです。
以前から「Mixed Method」のように、定量と定性を組み合わせた分析手法は存在していましたが、AIの介入により、両者の境界が曖昧になるだけでなく、その構造自体が書き換えられつつあります。それに伴い、リサーチャーの役割にも大きな変化が生まれています。
文脈に基づいた解釈とは?
AIによって定性データの分析手法は大きく進化していますが、だからといってリサーチャーによる分析が不要になるわけではありません。特に、AIツールには文脈理解に限界があるため、プロダクト開発や事業の背景に対する深い理解を前提とした分析は、人にしか担えない役割です。言い換えれば、単に傾向を示すだけの分析から、より一歩踏み込んだレベルへの進化が求められているとも言えるでしょう。
ChatGPTのようなAIツールは、データの細かな要素を見つけ出したり整理することに長けていますが、それらを結びつけた全体像を捉えるのはあまり得意ではありません。(Exploring the Use of Artificial Intelligence for Qualitative Data Analysis)という文献でも、文脈理解ができない点を指摘されています。つまり、AIは定性データ分析において人間の解釈を置き換えるものではなく、その解釈の土台となる素材を提供する存在として捉えるべきです。
では、「文脈に基づいた解釈」とはどういう意味でしょうか?何を理解していることで、人にしか導き出せないインサイトが生まれるのでしょうか。
- 文化や社会の背景:国だけでなく、環境や業界などのさまざまな背景が、言葉のニュアンスに影響を与えることがあります。
- 言葉の裏にある意図:人の発言の背後にある本音や、言葉にされない仕草、矛盾した感情を読み取る力が求められます。
- 倫理性と人間中心の姿勢:偏りは人間だけでなくAIにも存在します。学習データの偏りや、西洋的・男性中心・英語偏重といった視点が影響していることもあります。どのAIモデルを使うかによって、分析の内容や解釈も大きく左右されます。
こうした人の文脈を理解することは重要ですが、同時にビジネスやプロダクトの文脈を把握することも欠かせません。これらの理解が欠けていると、「ユーザーが困っている」といった課題提示にとどまり、具体的なアクションにつながる提案にはならない可能性があります。
- ビジネス戦略:目標や市場環境だけでなく、事業の優先順位や制約を理解していないと、得られたインサイトが具体的な行動につながる価値を持たない場合があります。
- プロダクトの成長段階:プロダクトの成長段階やロードマップによって、同じユーザーフィードバックでも解釈や活用方法が大きく異なります。
- 組織の価値観:これまでの意思決定や組織内の力関係を把握しておくことで、リサーチ結果が実際の行動へとつながる可能性が高まります。
定性調査の価値は、AIの持つパターン認識能力と、人にしかできない文脈理解を組み合わせることで生まれます。たとえば、AIはある機能に対するユーザーの不満の声を整理し、視覚化することができます。一方でリサーチャーは、最も強い不満を抱いているユーザーの多くが、要件定義の段階でリサーチ対象に含まれていなかったことに着目し、その背景に基づいた解釈が可能です。これにより、単なるプロダクト改善にとどまらず、リサーチ対象の拡大といった、より本質的な提案ができるようになります。
AI時代の自分の居場所を模索する
AIによる定性データの「定量化」は、従来の定性調査への脅威ではなく、その価値を再定義する機会と捉えるべきです。しかし、だからといって今までと同じ働き方では次第に事業と適合できない存在になる可能性はあります。
特に AI技術の進化スピードは、多くの専門家の予測を上回るペースで加速しています。2年ほど前だとハルシネーションが気になって使えないレベルだったものが、今ではリサーチのワークフローに組み込めるレベルになってきています。例えば、「AI can carry out qualitative research at unprecedented scale」という記事によると、ProlificのようなLLM を利用したインタビュープラットフォームが、わずか数時間で数千件のインタビューが可能になったと報告されています。平均的な人間のインタビュアーと同程度の質と評価されている点も注目です。
AIが優れた実査や分析能力を持つようになるにつれ、人の役割は単なるデータの収集や分析から、「意味をかたちにする役割」へと進化していくかもしれません。これは、AIが生成したインサイトを組織の文脈や戦略目標に結びつけ、行動可能な知見へと変換することを意味します。また、ユーザーのプライバシーやデータセキュリティ、リサーチ結果の公平性と透明性を担保するためのガードレールの設計・維持も、「意味をかたちにする」うえで欠かせない重要な役割です。
今起こっている変化を恐れる必要はありませんが、「人間らしさ」や「文脈理解」といった抽象的な表現にとどまっていては、私たちの強みを活かせないだけでなく、AIの可能性も十分に引き出せなくなるおそれがあります。答えは現場ごとに異なりますが、「判断して前進するために、私たちが理解すべき文脈は何か?」という問いに向き合うことが、人とAIの関係における新しい立ち位置を見つける手がかりになるはずです。